R.Feynkidの
ぶやき

「即死」の白抜き文字と走馬灯

 K林氏から、興味深い話しを聞いた。一瞬「ネタではないだろうか?」と思ったが、そうそう仲間を疑ったりしてはいけない。
 その話しとは、K林氏が高速道路でフィギュアスケートをしてしまって、10.0の高得点で逝ってしまいそうになった時のことである。突然、目の前に「即死」の白抜き文字が出たのだと言う。これにはびっくりした。
 動物は自分の死を悟る、というのは皆さんも、よく聞く話しであると思われる。野良の犬や猫なんかは、自分の死が近付くと、いつの間にか居なくなり、人目につかない所で、最後の時を迎えるという。象なんかも、森の奥地に象の墓場なんて言われる所があるらしく、そこへどういう訳だか行ける、なんて話しを聞いた事がある。
 人間だって、松尾芭蕉が病に臥せって、もう長くないとなった時に、門下生を数人集め、歌をうたったらしい。アインシュタインは、相変わらず間違った人で、最後の言葉は、ドイツ語だったらしく、何と言ったかは、わからずじまいだ。あんたは、アメリカに亡命したんだよ。看護婦(当時は"婦"でよろしい)にわかる言葉で言ってくれよ。面倒なので「それでも神はサイコロ遊びをしない」にしておこう。(ガリレオ風にいじってみた)
 自分が死ぬかもしれないという危険を見極める能力は、元々本能にあると思われる。単純に言えば、味覚である。我々は「苦い」を感じる。「苦い」イコール「毒」なのだという。生まれてすぐにでも「苦い」を嫌がるのだから、危険を察知する能力があると考えられる。
 ましてや、病気などで体が衰え、体中に毒素の一つでも回り始めれば、脳は敏感に反応するだろう。微量のホルモンでも興奮したり、へこんだりする優秀な脳なんだから。
 さて、問題の一つは白抜き文字だ。白抜き文字なんて、日常生活の中では、新聞の見出しぐらいしか、お目にかかれない。とりあえず、K林氏が新聞に親しみがあり、文化人であることは確認された。そう、この現象は、文字文化を持っている人間にしかありえなぁーいのだ。しかし、これは凄い事だ。
 私は常々、自分の脳みそは分離していると思っている。勝手に動いている方と、自分の脳みそである。時々、勝手な方が、自分の脳みそにプレゼンをし始める事がある。そうしないと、折角の勝手な方のアイデアが、自分自身でよく解らないのだ。
 という事は、その白抜き即死文字は、勝手な方が本能的に死を察知し、自分の脳に解らしめたと考えられる。しかも、インパクトを狙った効果的な白抜き文字(ゴシックW9位の太さかな?)で、母国語である日本語の漢字たった2文字で、伝えて来たのだ。なんという高等手段!
 で、次の問題は走馬灯だ。こちらもよく聞く話しで、個人差もあるのだろうが、子供時代から今までを振り返るのだという。
 はて? これは何の意味があるのだろうか? 我々の宇宙では、あらゆるものは、面倒な事はせずに、簡単な方、楽な方に傾くという。もちろん、やらなくていい事はやらない。それなのに、何でまた、いちいち振り返るのだろう?
 これを脳がやるからには、無駄な行為ではない、と考えなければならない。となると、やはり本能が必要としているのだ。考えられるとすれば、生物は基本的に生き長らえようとするので、死の淵からの生還を狙っているのかもしれない。
 覚えている程の、昔の思いでは、良い悪いに関わらず、生命にとってプラスに働く記憶だろう。そこで、今まさに死ぬかもしれないという時に、死の淵から這い上がるための知恵を、その記憶から、思い起こそうとしているのではないだろうか。その行為が、勝手な方から、自分の脳へのプレゼンとなり、走馬灯の様に、見る(疑似体験?)事になるのではないか。要は自分が対処できる最善の事をしようとするのだ。
 そうなってくると、白抜き即死文字も、走馬灯も非常に意義のある行為だ。迫り来る死を認識し、それから逃れようとする努力。生命の神秘ではなく、恐ろしいまでの、生命維持活動をするのが、生物なんだなと、思わずにはいられない。
 ただ、いつの話しかは知らないが、今なら「かみさんと、子供の顔がちらついた」と嘘でもいいから、付け加えておかないと、9.98の高得点で生還したとしても、あと0.02点を人為的に付け加えられる可能性が残っていると思うが、いかがだろうか?

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(C)2004 Richard Feynkid