R.Feynkidの
ぶやき

テレビニュースの字幕

 中途半端である。テレビニュースでの、海外の要人や一般市民、ニュース映像等の、日本語訳の字幕だが、各局ほぼ決まって、
  1. 字幕があれば、ナレーションが無い。
  2. ナレーションがあれば、字幕が無い。

というパターンだ。それぞれを挿入するのは、大変で面倒なのは良く解る。だが、ほとんどの場合、前後に字幕もあれば、ナレーションもあるのだ。という事は、字幕もナレーションも、ぶっ続けで入れてくれればいいだけの話しである。
 確かに、映像が女性で、男性アナウンサーが、ナレーションをするのは、変かもしれないし、複数の人々の声が、同一人物の声というのも、妙かもしれなが、重要なのは『伝わる事』であるので、ニュースの場合は問題にならないはずだ。
 字幕が無くなる場合も、難聴者には、単なる口パクになってしまう。要約でもいいから、表示しておいてくれないと、内容が飛び飛びになり、結果的には細かいところまで、伝わらないだろう。
 近眼大国(?)の日本では、字幕が100%読めるとは限らないし、難聴者が手話ニュースだけを見ていればいい、なんて事は無い。


ほんとうは何も考えて無いんだろぉ?

 えらい事件や無茶苦茶な制度が目白押しな世の中、それを報道するのは、新聞やニュースだろう。しかし、テレビニュースは今や、“報道バラエティー”とやらで、キー局と言われる局では、地味に取材(≒真実)した報道だけを放送する、なんてのはお目にかかれない。妙にドラマ仕立てにした特集や、キャスターのコメントの嵐だ。
 で、何かある度に、その(大体の場合アナウンサーである)キャスターのコメントに、「これは、考えなければいけませんねぇ。」というのが、このところ多い様に感じ、耳に障る。「で? じゃぁ、あんたはどうすればいいと思ってるの?」でしょ? この“意見風の単なるタメ息”はアナウンサーとしての立場なら、とりあえずは許せるが、キャスターとしての立場では、テレビの前でビールを飲んでる視聴者と変わりなく、屁の役にもならない。キャスターは、その口から飛び出す言葉が武器なのだ。
 人間の話している時に出てくる言葉は、結構いい加減らしい。何も考えていなくても、とりあえず、それらしい事が言えるそうだ。試しに、自分の意見を文章にしてみるといい。意外に単語は出てこないし、変な文章になる。だから、ちゃんと意見をまとめ、分り易くしようとするから、無責任な言い分は避けるようにもなって、(たとえ、その意見がトンチンカンでも)立派な意見文となってくれるのだ。
 その好例(?)が新聞だろう。新聞は基本的に報道はするが、意見を言わない。言うところは、社説である。この社説は各社で火花を散らすこともあり、新聞によっては意見がバラバラで、「全部の社説を読まなくちゃ、どれがまともな事を言っているのか、わからないなぁ。」なんて思える程のものである。そんなところで、「これは、考えなくては…。」などと書いてあるのは見たことが無い! 当たり前だが、昼行灯の出番は無いのだ。
 お願いだから、いい策も無い、意見も無いんだったら、何も言わないでほしい。その代わり、キャスターではなく、担当アナウンサーということにしてもらいたい。報道バラエティーってのも、考えなければいけませんねぇ…。こんなコメントでよかったかな?

もどる

(C)2004 Richard Feynkid