R.Feynkidの
ぶやき

通り魔の気持ちが解らんでもない

 とは言うものの、決して通り魔を擁護する訳ではないのだが、で、かと言って、解らんでもないという、私は、実に曖昧な姿勢である。報道される動機は、大雑把に言えば、「もう自分は終わった。」に要約できるだろう。挫折と、その後始末に思える。経歴は、「職を転々とした後、引きこもる。」で、いいかな?
 で、真っ当に生きて来たと思われる、キャスター、コメンテーターなんて言われている面々は、口を揃えて「甘い」と言う。勿論、挫折の一つも味わった事の無い人は、そうは居ないだろう。そして、ほとんどの人は、その挫折から這い上がって来るのだ。這い上がれない奴は甘いのかもしれない。弱いのかもしれない。要らないのかもしれない。
 だが、'甘い'の一言で、切り捨ててしまって、問題解決なのだろうか? 解決なんて、しやしない。だからと言って、私に、その解決法があるのかと訊かれれば、無いのだが、キーワードはある様な気がする。'職を転々'という部分だ。恐らく、彼らは、'職を転々'とする'努力'をして来た。'何度'も、'チャレンジ'して来た。全て、うまく行かなかった。
 神話か、昔話か、何かの、おぼろげに、私の記憶にある話しだが、神が罰として、山に岩を積み上げる役務を科した。来る日も、来る日も、岩を積み上げた。しかし、作業が終わりに近づくと、神が、その山を崩す。仕方が無いので、また、岩を積み上げる。すると、また、崩される。それを繰り返す。果てしない懲罰に、絶望する。
 何か、似ていないだろうか。いや、そっくりである。彼らは、そうやって絶望させられたと言っても、過言ではないだろう。閉塞感漂う、今の日本では、どうする事もできないかもしれない。しかし、社会や誰かが悪いとも言えない。誰もが、その中で生きている。生きている? いや、通り魔にはならなかったが、絶望してしまった人は、自らの命を絶つ、自殺を選んでいる事だろう。公にされないだけだ。
 自然界の淘汰の力が働いている? 自然は時として残酷に感じる。人間も、その一部ではあるが、そのまま適用するのは悲しすぎるし、厳しすぎる。だが、重ねて言うが、私は解決策を持ち合わせていない。げんね。ただ、忘れてはいけないのは、'彼らは、何の努力もして来なかった訳ではない'という事実である。それだけは、心に留めて置いて欲しい。何か、糸口になるかもしれない。

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(C)2011 Richard Feynkid