R.Feynkidの
ぶやき

で、現代の正月って…

 初日の出暴走と、テレビの特番以外は、日本中が、伝統を重んずる、厳かな雰囲気になる正月(皮肉)。突然、信心深くなる初詣(皮肉)。『今年の目標』と題し、それらを心に誓ってしまったりもする(笑)。
 しかし、残念なお知らせがある。現代の正月そのものに、根拠は無い。思い出していただきたい。日本は、明治5年12月3日突然、グレゴリオ暦を採用し、太陰太陽暦だった、今でいう旧暦から、約1ヶ月ほどをすっ飛ばしてしまった。という事は、何の理(断り?)もなく、正月が移動してしまったのである。
 文明開化、国際化と言われれば、それでいいのだが(笑)、伝統云々という意味では問題だ。何せ、神社の神さんはビックリだ。「師走じゃのぉ。しばらくすると初詣か。忙しくなるぞい。」なんて呑気に構えていたところに、「はい、正月です。4649っ。」である。泡喰った事だろう。
 第一、八百万の神(自然神)信仰ならば、一年の計は、春分が筋ではないだろうか? 地球と太陽との関係で、春分なら黄道0度で、これから暖かくなり、動物達も活発に、農作物もこれからという季節だ。出発点としては良いと思われる。秋分は、寒くなるので、ちょっとねぇ。
 もっとも、昔は、太陽を観測するのは難しく、日本では、永らく太陰太陽暦で、正月もウロウロしてしまっていたはずだから、グレゴリオ暦で正月をやる方が、間違っているのかもしれない。なので、伝統を重んずる(ありがたみを目指す)ならば、毎年「来年の、この日が、本来の正月です。」というのを、大昔からの観測方法の計算で、国立天文台か何かで、発表してもらうというのが、ベターかもしれない。それ位、現代の正月の日時には、根拠が無いのである。
 という訳でもないのだが、私はもう何年も、初詣には行っていない。行っていた頃も、年々賽銭を減らし、お神酒だけは飲んできた(笑)が、何と言っても、バカらしくなってしまった。信じてもいない神さんに、金を払って、寒い中わざわざ出向いて、何もしてくれないのを期待(?)しなければならないなんて…。そう、何もしてくれないなら、取引停止だ。大体、「願いを聞いて欲しければ、賽銭持って来い。」なんて、神さんが'袖の下'要求して…って、まぁ、伝統の隙間産業だからねぇ。


追記:おかしい

 んがぁー、そうである。大体、あの賽銭や布施というのが気に入らない。金を払って、祈らなければ、助けてくれないのか? もし、私が(精神的でも、経済的でも、身体的でも)行き倒れていても、神さんは、私の顔をチラリと見て「あぁ、こいつか。布施も祈りもしない奴だ。」と言って、そのまま立ち去るのだろうか? 恐らく、そういう事だろう。
 ならば、コンサートが盛り上がらないからといって、帰ってしまうロックスターと変わりは無い。普通、この様な場合、そのロックスターを「ふざけた野郎だ。」と思う。でも、神さんと、どう違うだろうか?
 こう考えてみて欲しい。

  • 布施をし、祈らなければ、助けてくれない、神さん
  • 入場料を払い、声援を送らなければ、演奏してくれない、ロックスター
 さて、どこが違うのだろう。同じだ。どちらも、"Aをして、Bをしなければ、Cをしてくれない、Xという存在"である。トポロジー的に考えれば、同様となる。
 しかし、世の中の評価は別だ。神さんの方は、「そういうもんだ。」と言われるだろう。ロックスターの方は、「ふざけやがって、金返せっ」と罵倒されるだろう。おかしい…。
 「ロックスターと、神さんを一緒に考えるのはおかしい。」という意見もあろうが、例えば、もう生きている事に絶望してしまっている人が、最後の楽しみとして、コンサートに行き、
  1. ある歌に感動して、生きる気力を得た。
  2. ロックスターが帰ってしまったので、そのまま、絶望して、死を選んだ。
 (1)は、よくある話しであるが、(2)ならば、かなり深刻である。
 布施もせず、祈りもしない"奴"でも、助けてくれるのが、筋ってもんだろう。なぁ、神さんよぉ。

※トポロジー : ざっくり言えば、"ドーナツとやかんは、同じ形状である"という理論。

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