R.Feynkidの
ぶやき

でかい芸術

  デカい事はいい事だ。経済成長期には、あらゆる数字が大きくなっていく事は、成長の証しであり、人々の憧れであった。「隣の車が小さく見えます。」なんてキャッチコピーがあったらしい。今では、でかければいいのか、と問われれば、そうでもない、というか、どこかバカっぽいイメージすら持たれる可能性がある。
 しかし、でかいという事は、それだけで、人を圧倒する効果がある。日本ではあまり見ないが、フルトレーラーなんて走ってきた日にゃぁ、恐怖にも似た威圧感を覚える。フルトレーラーとは、普通に見かけるトレーラーの後ろに、もう一台の荷台が連結されている状態のものだ。ジャンボジェット機なんかも、私は見慣れていないので、滑走路を離着陸する姿なんかを間近で見れば、「おぉ、すげぇ。」である。
 でかいと言えば、本州中央付近の人の感覚なら富士山。海辺の人は、大海原。しかし、振り返れば、すぐに峰が山脈となって連なる景色。どこに住んでいても、大空は広がり、そこにロマンを感じ、恋焦がれる人も多いことだろう。

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 最近、目障りなのが、『でかい芸術』や『だだっ広い芸術』である。昔の芸術は小さいかというと、結構でかいのだらけなのだが、何故か、最近のものは「どうもなぁ…。」なのだ。
 なんで? で、気がついたのが、でかいだけだったり、だだっ広い所を使っているだけだったりして、ユニーク(唯一無二)ではない事である。その基準は“小っこくしても、その芸術性は失われないか”だ。

○ 例えばユニークな例では、岡本太郎氏の太陽の塔(だったっけ?)。あのトーテンポール(失礼!)を小さくして、土産物になったとしても、太陽の塔のままである。
○ 巨大芸術ではないが、ムンクの叫びなんかも、携帯ストラップにできる位小さくしてブラ下げても、やはり‘叫びちゃん’である事には変わりない。(あれは、叫んでいるのではない、という説があるのだが、どうなの?)
○ 考える人なんて、例え便器に座らされて、テレビの小っこい画面に映し出されても、やっぱり考える人である。(あれも、考えている訳じゃぁない、という説があるのだが、どうなの?)
○ ピカソのゲルニカに関しては、お恥ずかしい話しだが、あんなにでかいとは、思ってもみなかった(笑)。絵から伝わって来るものよりも、どちらかと言うと、教養の無さの方が痛い(涙)。
 と、誰でも知っているであろう作品しか、私は知らないから、例にできなかったのだが、次は、ユニークとは思えない例。

● 美術館や、ちょっと洒落たつもりの(無駄遣い行政産物的)施設の庭に、そびえ突っ立っているオブジェ。「これ、何なん?」という野暮な話しは抜きにしても、小さくしたら、ほとんどの物は、百均のペーパーウエイトにしか見えない。
● 催場のフロアを占領して、こまごまと物を置いて、照明を焚いて、それを遠目にお客さんが見るの。なんて言ったらいいかわからん、単なる説明になってしまったじゃないか(笑)。
 これなんて、壷がゴロゴロしていたり、マネキンがポーズをとっていたりするだけなんだけど、そのままでも、瀬戸物屋の店先や、イトーヨーカ堂の衣類売り場にしか見えないし、小さくすれば、ママゴトの道具である。量産ではあるが、リカちゃん人形の方が、奥が深そうだ。第一、そこにゴロゴロしている壷や皿は、1枚では芸術とは言えない代物なのか?
 要は、実物大のジオラマか(笑)。はぁ、やっと、言葉が思いついた(いいの?これで)。それならば、ブティックやデパートの店先にあるショーウィンドウで、もうとっくにやっているではないか。今さら前衛芸術でもあるまい。広さの制約が無い分、楽な位だ。
● 体育館でしかできない巨大書き初め(笑)。ホウキよりでかい筆から、墨をボタボタ垂らしながら、裸足で半紙(?)の上を駆けずり回り、「で、なんて書いてあるの?」という作品(?)が出来上がるものだ。時には、その上でズッコケたりもする。
 書道だからといって、伝統とかなんとかには無関係の様だ。伝統に裏打ちされていれば、それ用の道具が揃っているはずである。しかし、なぜか墨汁が入っているのは、鮮やかなブルーのバケツだ(笑)。
 バケツの件は置いておいても、書道といえば、その芸術性だけではなく、精神鍛練という目的もあることだろう。だが、人間は不器用な生き物で、大抵の場合、巨大書き初めの様に、身体を激しく動かせば“心、ここにあらず”になる。精神鍛練どころではないし、仏造って魂入れずになる可能性があり、そんなんで出来上がったものが、胸を張って「芸術ですっ。」と言い切れるだろうか。
● 絵の具を塗りたくるの。手や足、身体中を筆代わりにして、這いずり回り、時には塗料を入れた缶のままブチ撒ける、言わばパフォーマンスに近いものだ。これなんかは、大小問わず「どうかな?」という代物、というより色物(?)か。
 昔、イギリスのノッポさんが、大暴れ時代に、数枚の塗りたくり前衛芸術とやらを、勝手に、そして更にグチャグチャにして、弁償させられたって話しがあるのだが、実は、全部いじったのに、弁償したのは、その内の2枚(だったかな?)分だったらしい。「結局、作者もどんなのを描いた(?)のか分からないカスだったんだ」というコメントを残している。芸術家よ、そんなのを、今だにやり続けているとしたら…。

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 と、まぁ、ダメな例もいくつか挙げてみたが、最近という意味で新しいからダメとは言えないよ。良いものもあるはずだ。古いものに良いものが多く感じるのは、長年に渡って選別され、良いものだけが残って来たからに過ぎない。それ故、人間が何の先入観も持たずに鑑賞して、感覚だけで胸を打ち、「んー、いいねぇ。」と言えるパターンは、かなり出尽くした世界であり、どんなに良くても目新らしさがなければ、マスの目に止まる事なく、残念ながら埋もれてしまうのであろう。だからと言って、巨大なものを作って、見る人を圧倒しようという手法は、もうダメである。それは小っこくても、芸術性が失われないか。そこを検証してから、世に出す方がベターなのではないだろうか。

※ユニーク
面白いという意味で使われる事が多いが、本来は唯一無二である。‘面白い’はファニーなんじゃないかな。
※イギリスのノッポさん
ロックの3大ギタリストの内の一人。黒ま術に精通していると言われている。

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(C)2009 Richard Feynkid