R.Feynkidの
ぶやき

超激安店に違和感を覚える

 どうか、アレルギーを起こさずに聞いていただきたい。以前に読んだ本に書いてあったのだが、ユダヤの教えでは、“適正な値段で商売をする分には、儲けてもいい”というものがあるらしい。こんなところが、拡大解釈されて「ユダヤ人は守銭奴だ。」なんて言われる由縁なのかもしれない。私はユダヤ人でも、ユダヤ教徒でもないので、この解釈は正確ではないかもしれないが、そんな様な事が記されていると思っていただきたい。
 要するに、“買い手は適正な値段で入手できて‘うれしい’。売り手は適正な儲けを得られて‘うれしい’”という商売を奨励する、Win-Winの発想である。資本主義社会での理想的な形態と言える。‘ユダヤの教え’云々でなくても、素直に頷けるのではないだろうか。

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 前回の石油ショックからも、第二次世界大戦からも、(たぶん)世界大恐慌からも、100年も経っていないのに、何故か“100年に一度の…”と言われる大不況の昨今である。ん?、石油ショックも戦争も、金融危機ではないからカウントされないのか…。なんにしても(やや強引?)、我々庶民は、経済危機に直面せざるを得ない時代に突入した。

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 そんな中、テレビのニュースバラエティーと言われる不思議な番組で特集されるのが、超激安店である。
 生鮮を扱うスーパーの激安店では、何らかの仕入れルートがあって、安く提供することができるのだろうが、安過ぎて(と、感じるだけなのかもしれないが)公正取引委員会が動き出さないかという、いらぬ心配が頭をよぎる。儲けがないとか、明らかに赤字な商売をすると、公取委が怒るんだよねぇ。きっと、我々には激安に思えるかもしれないが、儲けはあるのだろう。その激安商品は薄利でも、レギュラー商品が、それなりの粗利を期待できるのであれば良い。それでなければ、店をやって行けないか、公取委が動いているはずである。
 私が違和感を覚えるのは、衣類や雑貨を扱う激安店である。我々が通常抱く漠然とした物価とは、かけ離れた安値で商品が売られている。テレビでは、その裏側とも言える、仕入れの現場も写し出す。
 大体は、売り主の事務所や倉庫かどこかで、商品を前に、2人がボソボソと言葉を交し、電卓を弾き、値段交渉をしている場面である。その後は激安店の社長が「これはペケペケ円で売れる」とか言い、レポーターが「なんと、ホニャララがペケペケ円ですよぉ。」なんて感嘆する映像に移る。そして、冒頭に流れる“開店と同時になだれ込むオバチャン”の映像に戻るのである。で、「こんな時代に有難いですねぇ、主婦の味方ですぅ。」とか、キャスターとやらが、「不況下でも、元気な商売があるものですねぇ」とか、なんとか言って締めだ。

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 安く仕入れて、安く提供しようと努力するのは、資本主義の競争の中では、至極当り前の事であり、誰が、ケチを付けられよう。お客さんは安く商品を入手できて‘うれしい’し、店は商品が売れて、利益が出て‘うれしい’。
 しかし、ちょっと待てよ。その前があるではないか。仕入れだ。見るからに、背に腹は代えられぬ状況の売り主が、目の前の現金欲しさに、ひと山いくらの様な値段で、商品を買い叩かれて、これらの激安商品は誕生するのである。
 我々が通常抱いている物価より安いと感じる分(差額)は、これらの激安商品の最初の売り主が負担していると言えるだろう。その負担金は、きっとその売り主の借金となっているに違いない。そして、この悪性の借金は、大小あるかもしれないが、不幸をその売り主にもたらすと思われる。資本としての借金ではなく、単なる借金だからだ。
 その反対に、激安商品を入手したお客さんは、幸福感を味わう事だろう。しかし、この幸福は、会ったこともない誰か(最初の売り主)の、不幸の上に成り立っているのである。一方は幸福、一方は不幸。仕入れ時の取引では、片方は‘うれしくない’のだ。これでは、Zero Sum Gameではないか! 誰もが幸福なWin-Winとは、あまりにもかけ離れている。
 商売は、喰うか喰われるか、やるかやられるかの厳しい世界でもある。売り主も買い主も、それぞれの思惑が一致して、取引が成り立っているのだから、問題なんて、どこにも無い。そんな仕入れ現場は、我々にとって、単なる裏側かもしれない。だが、売り主が不幸へと転落して行く様が、放映されない更なる裏側として存在するならば、それは、裏の裏、即ち表側、我々の生活なのではないだろうか? そう!「働けど、働けど…。」という奴に化けて、振り被って来た姿なのである。

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(C)2009 Richard Feynkid