R.Feynkidの
ぶやき

おバカキャラは現代の穢多非人制度か?

 おバカキャラが大人気である。クイズ番組で、誰でも知っているであろう答えを、有り得ない、というか、パッとは思い付かない様な、別方向へすら持って行ってしまうという、快挙をもたらしている。我々視聴者は、それを見て「馬鹿だなぁ」と笑い、また、作り手も、それを期待しているのだろう。

 ふと疑問に思ったのが、「彼等(彼女等)は、本当に“おバカ”なんだろうか?」。どうにも、『ここでボケれば、大笑い』というツボを心得ている様にしか思えないのである。喋れば、受け応えもしっかりしているし、反応も速い。何より、ボケ所を知っているとすれば、解答も知っているのではないか、という疑問にも繋がってくる。だからと言っていいのか、どうなのか、何とも言えないが、本当におバカと思われる芸能人は、出て来ない様な気が…。例えばコンビ名が、某白黒ゲームの白さんは見当たらない。「ビートルズってボンジョビ?(反対だったかな?)」という発言が、本当で本気ならば、あくまでも、おバカ“キャラ”の為のクイズ番組には、不適切である。ツボを外した笑いは、単なるトンチキになってしまう。
 彼等は芸能人だ。泣きたくもない時に泣けるだろうし、笑いたくなくても爆笑できる。演技も芸のうちである。ならば、知っている事を「知らない」と言うのは簡単だ。道化になりきり、馬鹿を演じればいい。“アイドル”は直訳すれば、“虚像”ではないか。虚の世界を、我々はそのまま信じて良い訳がないっ、なんて、ツバを飛ばされても迷惑か…。

 ノイローゼ呼ばわりされるのを覚悟で言えば、これは“仕掛けられている”と言えるだろう。もちろん、テレビ局の思或であり、仕掛けであるのは、商売だから「そりゃ、そうだろう」である。当てれば、出演者は更に売れるし、グッズやら、歌えばその派生商品やらも飛ぶ様に売れる。イベントだって簡単に打てる。が、しかし、もっと拡大解釈し、『ネガティブ事象から、国民の目を逸らしたい。』という思惑が見えたならば、どうだろう? 思惑、いや、政策と言い換えれば、その陰謀の度合いは深まってくる。

 官が士、農工商が我々、そして穢多(えた)があり、非人(ひにん)が、彼等おバカキャラという設定ならば、我々は彼等を見下し、どんなにか安心するであろう。エンゲル係数無視の、消費税や所得税等の重税や、年金をはじめとする将来不安から、「あいつ、馬鹿だなぁ(爆笑)」と、お気楽モードにして目を逸らせられるとしたら、お台場局をプロパガンダの発信地とするのは、手っ取り早い方法だ。なにせ、放送免許を与えているのは国だ。「話しがあるんだけど。」と持ち掛けるのは簡単だし、そして、国と局の思惑が一致すれば、手を取り合っても不思議ではない。ただでさえ、お台場局の仕掛けは“現象”になり易い。「裏NHKではないのだろうか」と勘ぐりたくもなる。
 真逆を行く“高学歴芸能人”や“インテリ芸能人”なるものも、「社会というものは、格差があるもんですよ。士には勝てないんですよ。」と決定着けているのではないだろうか? ただ、東大や京大卒業でも、ちょっと面白可笑しい芸能人達を見て、自分との乖離と同化を同時に体験し、結局は笑ってお気楽モードにさせられてしまっている様に思える。たまに、出演者が答えを外し、テレビの前の視聴者(あなた)が正解でもしようものなら、かなりの優越感を覚えることだろう。微妙なさじ加減で、格差社会すら有耶無耶にできる。(“うやむや”ってこんな字なんだぁ)

 ってな訳で、世の女史は、イケメンおバカキャラに黄色い声援(絶叫)を送り、男性諸氏は、セクシーおバカキャラのグラビアに唾飲する様になった。お金まで払って! 道化であるおバカキャラ達は、穢多でも無ければ、非人でも無い。きっとビックリする様なギャラを貰い、下賤とは程遠い立派な暮らしをしているに違いない。本当のおバカキャラは、いつの間にか、娯楽に姿を変えて忍び寄ってくる、プロパガンダにハマった我々ではないのだろうか? 否、おバカなキャラクターどころではなく、真の馬鹿なのかもしれない。

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(C)2008 Richard Feynkid