R.Feynkidの
ぶやき

iPS細胞技術と倫理

 詳しい事は勉強不足で解らなくて申し訳ないのだが、ES細胞の次はiPS細胞らしい。どちらもいわゆる万能細胞の事なのだと、私は解釈しているのだが、これをひと度『人』に応用するとなると、厄介な事を言い出す。そう、『倫理』という奴だ。
 この手の研究者は、大っぴらに言わないまでも、最終的には人に応用する事を目標にしていると思う。その先には医療で、(肉体機能的にも、精神的にも)人を救うという貴いものがあるはずだ。もちろん、その結果によって、大きな報酬があっても良い。
 さて、この場合の倫理とやらは、邪魔者でしかないと思えるのだが、いかがだろうか? 頭に浮かぶのは、2つの相反しそうな事である。それを天秤にかけてみればいい。
 ひとつ目は大雑把に言えば、“肉体を作り出す行為”であり“神への冒涜”だ、という考えだ。天地創造、もちろん、人間なんかも、神が作り(創り?)出したものであり、それを人間が作るなんて、とんでもない。更には、機能強化の為の肉体改造に繋がる。
 ふたつ目は、世界中で移植でしか生きる道が無い人々がいる。こういった人々は、基本的には、ドナーが見つかるまで、待たなければならない。そう、貴い命が亡くなったと同時に、その一部がリレーされるのだ。いや、もしかしたら、貧しい国の人々が、家族の為に金と引き換えに犠牲となって命を落とし、臓器がリレーされる事も、十分考えられる。
 または、事故等によって、身体の機能の一部を失ってしまった人。先天性はもちろんだが、後天的ならなおさら、不便を強いられる。事象によっては、長いリハビリが必要であり、しかし、決してその機能そのものは、回復しない。
 ざっと挙げたが、これらの事が、iPS細胞の人への応用によって、解消される可能性がある。
 では、この2つを天秤にかけた場合、どちらがより重い(重要)だろうか? ひとつ目は、一体、どこのどいつに気兼ねしているのだろう? 私にとっても、あなたにとっても、何もしてくれない、何も役に立たない神に、何を躊躇する必要があるのか? やる事と言えば、血迷った愚か者がやる、金儲けと争いぐらいなものじゃないか。それだけじゃない、その先には憎しみも待っている。祈れば、信じれば、腎臓が治るのか? もし治るのならば、日本なんか、人口の2倍もの宗教人口がいるのだから(笑)、医療機関など無用の長物だろう。
 ふたつ目は、実現すれば、どんなに素晴らしい事だろうと思う。移植は待つ必要はない。培養すれば良いので、その期間だけである。ドナーが見つかるかどうかの不安は無くなり、逆に沸き上がるのは、ウキウキ、わくわくの待ち遠しい気分だろう。更には、ドナー登録や、そのリレーの為のコストも、大幅に削減できる。
 身体の機能の一部を失ってしまった人も、その機能は回復し、絶望の淵から復活する。もちろん、先天性の人々は、手術に耐えられる年令(体力)になったら、その機能は備わる事になる。その結果、誰もが、その将来を明るくすることができるだろう。初めは、お金持ちの為の医療になるのだろうけど…。
 さて、今でも、肉体は改造され続けている。プチ整形に始まり、脂肪吸引等。欲望的(?)な美容整形だけではなく、火傷などの治療で、自分の腿の皮膚を移植するなんていう方法もあるらしい。
 改造ではないが、考え方を少し変えてみよう。人体の中では、刻々と新しい細胞が作られていて、日々、新しい細胞に置き換わっている。それが試験管(?)の中で行われるに過ぎないと思えないだろうか? どうせ自分の細胞から培養するんだし…。
 薬は、手術は、医療は、神への冒涜ではないのか? 神へすべてをゆだね、死を待つ事、衰弱していく事を許さず、薬や手術で直してしまおうというのは、どうなのだ? 明るい未来を閉ざされ、若くして亡くなったり、日々、苦しい思いで過ごし、やりたい事もできずに一生を終わるのが、幸福と言えるのだろうか? もし、今からでも、iPS細胞とやらの技術で、改善するのであれば、どんなに良いことか。それこそ、ジョンの言葉を借りて“イメージして欲しい”。
 いかがかな? あなたの天秤はどちらに傾いたのだろう。私は、この場合の『倫理(神への冒涜 云々)』とやらは、“人の痛みを感じない奴の世迷い言”と結論付ける。

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(C)2007 Richard Feynkid