R.Feynkidの
ぶやき

お茶碗は左

 もう日本中で、どうでもいい事になっているのかもしれないが、ごはんを食べる時に、お茶碗と味噌汁の位置はどうしているだろうか? 私の作法では自分から見て(向かって)、左がごはん茶碗で、右が味噌汁の碗である。これ以外は、小さい頃からの教えで、不可だ。
 理由がバッチリあって、逆だと、仏さん(フランスじゃぁないよ)に供える置き方で、生きている人間が食べるものにならないんだそうな。「ごはんに箸を突き刺すんじゃない」ってのも、同じ理由だ。その他にも色々と食べ方や、箸の振り回し方(?)の作法があるが、見ていて、やられて、不快になる様な事をタブーにするのに加えて、中には仏教上の迷信(?)や言い伝え(?)なんかも混じっているだろう。全部知っている訳ではないが…。
 私にとっては、神もへったくりも無いので、仏教上のどうのこうのは、どうでもいい事だ。しかし、生きているうちに、死人のごはんとして設定されたものを、自分で食べるというのは、いい気持ちがしない。日本で生まれ、日本で育ってしまった私は、意識しないまでも、仏教の影響は免れられない。これだけ、見渡す限り仏教風の墓が濫立している状況では、完全無宗教のバックボーンを構築することは不可能だろう。
 だから、私の周りで食事をする人が気になって仕方が無い。なぜか、かなりの人が、(私に嫌がらせをしているのではないだろうか?と思う程)逆なのだ。年齢も関係なく、広範囲で無関心なのだ。そして、その状況は、えらく居心地が悪いものでしかない。
 日本の新興宗教の信者の総数は、日本の全人口を遥かに超えている、なんていう統計があるらしいが、そんな中、日本人というだけで、仏教的作法を強要する訳にはいかないだろう。しかし、根強く一般化してしまった作法は、それがやたらと面倒とか、どうしてもやりたくない様な事でなければ、沿った方が、こだわる人との摩擦を起こさないで済むのではないだろうか。私が気にし過ぎなのかな?

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(C)2006 Richard Feynkid