R.Feynkidの
ぶやき

利害が無くても、なんか言おうよ

 ムッツリしていないだろうか? 例えば、飲食店で注文の品が出てきて、店員さんがテーブルに置いてくれた時…。レジで支払いを終えた時…。
 相手は「お待たせしました。なんたらのどうたらでございます。ごゆっくりどうぞ。」「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。」だのなんだとの恐縮至極という感じだが、こちらは「んー」でもなければ「ぷー」でもない。ぷーって事は無いだろうが、無反応が目立つ。
 欧米だけが素晴らしいわけではないが、イタリアでは、しつこいぐらいにやり取りがある。「Prego(どうぞ)」に始まって「Grazie(ありがとう)」「Prego(どういたしまして)」とあるらしいが、日本の飲食店等では最後の「どういたしまして」まではない。しかし、「ありがとう」が気恥ずかしいなら、「どうもぉ」ぐらいは言ってもいいのではないか。『お客様は神様です』なんてCMが昔あったが、今どき500円のパスタランチを食って『神様』は無いぞ。お客かもしれないが、そんなもんだ。
 私は、客としている時、傲慢な態度はとらないようにしている(つもりだ)。だからお客を迎える時でも、必要以上にヘコヘコしない。敬意を表し、心地よい一時を過ごしてもらいたい、とは思うが、お客の奴隷ではないからだ。
 蔓延する拝金主義的状況が、必要以上のヘコヘコと、傲慢な態度の2極化を生み出しているのではないだろうか? 『金さえ払えば神様だ』という気持ちが、どこかにあるはずだ。だから逆に『金を払ってくれるのは神様だ』と必然的になり、立場が逆転すれば、頭を地面に擦りつけんばかりの態度になるのだ。それが豊かな人間のする行いか? 正常なコミュニケーションがとれているのか? とれている訳がない。奴隷の立場で、何か『もの申す』事など無理だ。だが、それは客の方も、より良い選択肢があるかもしれないのに、それがわからない可能性が出てくるという、損失もある。嫌な思いをして(させて)、いい事なんて一つもありゃぁしない。
 立場が変わった時に憂さを晴らす。今の日本の姿かもしれない。しかし、車を運転している時に、譲ってくれたらハザードやクラクションで『ありがとう』が言える国民である。もう二度と逢わないかもしれない相手なのに…。だから、利害が無くても、なんか言おうよ。来るはずの無いより良い世の中と、何よりもあなたの為に、金を払う時こそ、相手を思いやるのだ。

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(C)2006 Richard Feynkid