R.Feynkidの
ぶやき

早く死にたい

 別に『今すぐ死にたい』という訳ではない。私の目標の一つに長生きがあるくらいだから、間違っても自殺したい、っつーんじゃない。でも、もういい。早いところ年をとって、死にたい。今、平均寿命で言えば、まぁ、中間地点ってところである。あと半分もあるのか…。
 『我が人生、(たぶん)失敗』の感が拭えない。何をやってもうまくいかないし、何がなんでもタイミングが悪かったり、いや、そう思っているだけなのかもしれないが、とても辛い。今も、この文章を書いていて、目から涙が溢れそうだ。何が悲しい訳でも無く、痛い訳でも無く、嫌な事があるとか、トラブルを抱えているとかでも無い。でも最近、ふと気がつくと、泣きそうな自分がいるのだ。
 やりたい事が無い訳でもない。仕事上でも目標はあるし、みんなが私を頼ってくれる。何の不都合があるのだ! しかし、ずっと『向いてないかもしれん』という感がつきまとう。
 不安だらけなのかもしれない。うまくいかないのは、自分が至らない為なのだろうが、私には精一杯だ。涙がこぼれてしまった。もう精一杯である。苦しい。
 それなりに、公私共にがんばって生きているつもりだが、まだまだ足りないのだろうか? もっともっとなのか? だが、もう絶対にがんばらないぞ! 何をやっても無駄だ、少なくとも私にとっては…。びろろーんと生きる事にする。できるかな? できればやってるよ! ばかっ
 そういえば、何で長生きしたいんだろう? こんなに嫌なのに、ただ漠然と生きたいのだ。理由が無ければ別にいい様な気がするが、私の『生』へのこだわりは、並み大抵の事ではないのだろう。
 小さい時、私は非常に病弱で、ひと月に2度は風邪をひいて寝込んでいた。その辛そうな私に母は、「もう、二人で死んじゃおうか?」と聞いたらしい。そして私は涙ながらに、「嫌だぁ、死にたくなぁいぃ」と答え、今に至るらしいのだ。もう、あの頃は、私は具合いの良い日の方が少なかった。熱が出て、病院に連れて行ってもらうのに、抱いてもらうと、節々が痛く、泣くのだ。のどが痛く、扁桃腺も腫れ、食事も採れない日々だったのだ。それでも死にたくなかった。あの時の一言が違っていたら、私はここにはいない。あの時、何も聞かずに私を殺さなかった母に感謝するのと同時に、強い『生』への執着を持っていた私に感謝する。たまには自画自賛だ。いい事のひとつもなくっちゃ。
 最近の私の口癖に「何かいい事ないかなぁ」があるが、いい事ってなんだろう? そういえば、漫然と口に出していたが、いい事の定義も無しに、漠然とし過ぎてはいないか? 何かイベントが欲しいのか? 何か欲しい物でもあるのか? 一体、どうしたいのだ? わからん。もう完全に見失っている。いい事って、楽になりたいって事か? 楽しい事って何だ? 笑えりゃぁいいのか?
 楽園なんてのもいらない。天国なんてのもいらない。死んでからまで、ごちゃごちゃしているのは嫌だ。結局は人付き合いがあるのか、面倒だ。何も無くていい。でも、ひとりぼっちは辛い。ひとりぼっちになったら、誰に心を打ち明ければいいのか? いや、今でも誰にも打ち明けられていないではないか。恐い。いい歳して何言ってるんだ。
 私は今、会社で植物の面倒を見ているのだが、その植物は自分に思えてくる。私は水やりをしている時、全然花を見ていない。花なんていう、きらびやかな部分は、もはやどうでもいいのだ。それを生き延びさせる事に注力している。でも、平気で枯れる。自分の様だ。植物だって、花の一つも咲かせ、喜ばせたいと思っているだろう。でも、そんな事、誰にも伝わらない。枯れそうでも、誰も水をやってくれない。
 あぁ、明日、太陽はまた昇るのだろう。その光は私にも差し込むだろうが、それだけだ。希望の光とは思えなくなってしまった。私を目覚めさせ、苦痛の一日を歩ませる光だ。そして、その光は、朦朧と生きている私を、死神が見やすい様に、照らし続けるだろう。奴とは長い付き合いになるのか? 短い付き合いになるのか? 短いのは嫌だな。でも、あと半分も付き合うのも嫌だな。もう、とにかく嫌だ。奴が私を見続けている。
 こんな事を書いている内は、元気な証拠かもしれない。だが、完全に鬱モード突入である。っつーか、もう随分前から入っている気がする。元気そうな鬱が一番危ないぞ!って、私か!
 今、斜め右前で、闇の中から死神が笑った気がした。

追記:生きる事への目標

 全く意味が解らないのだが、頭を過った言葉だ。生きる事が無意味に感じている私には、目標なんて有り得るはずがない。しかし、『勤労世捨て人』なんて言葉を編み出し、豪語(?)している私にも、生きている限り、何らかの義務めいたものが発生する。生きている時に発生する、それらの諸問題は、どうにかすり抜けるとして、どうにもならない問題が、「もう寝ようか」という時に浮びあがってしまった。
 『どう死ぬか』だ。これは思った『生きるという事は、如何に美しい骨になるか』という事を。日本では、火葬なので、骨になるのが基本だ。しかし、こればっかりは、自分ではできない。誰かにやってもらわなければならない。
 人間らしく生き、人間らしく死ぬという事は、火葬の文化がある限り、美しい骨になるという事だろう。誰かにやってもらわなければならないならば、生前に、それなりの行いをしてこなければならない。生を受けたならば、美しい骨にしてもらうという、義務にも似た目標を達成しなければ、人間らしい最後を迎えられない。
 ならば、私はどの様に、近いか遠いかわからないが、死を迎える時に、振る舞えば良いのだろうか?   やる気の無い私にとって、一代で財を成し、それによって、誰かが勝手に、しかも仰々しいまでの葬儀をしてくれる、というのは無さそうだ。元々無いパターンだが、とりあえず言ってみた。
 現在独り身の私には、歳をとってから、看取ってくれる人は無い。順当に行けば、親より早く逝く訳にはいかないし、兄弟もどっちが先かわからないが、私は弟なので、やはり順当に行けば、誰もいない。血のつながりでは、残すところは親戚だが、両親とも末っ子状態なので、私は親戚の中でも、末っ子状態だ。ダメじゃん。
 残されるのは、富士の樹海で土に帰るのか? いや、これは駄目だ。とても美しい骨にはなれそうもない。すぐに野良犬か何かに、『ごちそう』としてパクつかれるのがオチだ。そうなれば、所々肉や皮が残っていたり、骨までハグハグされて、ボロボロになる可能性が大きい。大体、火葬じゃないじゃん。
 こうなれば、いわゆる老人の孤独死か? っつーか、老人になるまで生きていればの話しだが…。実はこれもまずいかもしれない。日本の気候を考えれば、腐乱しそうだ。後始末で、見知らぬ人に迷惑をかける事になる。ひからびてくれた方がいいかな? うんにゃ、肉の一部と皮がへばり付くじゃん。その後、うまく骨になってくれるのか? しかし、ひからびるか、腐乱か、自分では選べないよなぁ。この案はできるだけパス。そう言えば、どっかの秘境では、断崖絶壁の高台に持って行って、ハゲワシ(だったかな?)に、食べさせちゃう、ってのがあるらしい。なんでも、それでその人は、鳥になるんだそうな。私にはそういうバックグランドが無いけど。
 いいのがあった。『野垂れ死に』だ。できるだけ、人目に付く所で、パッタリ死んどく。誰かが救急車の一つも呼んでくれて、病院に担ぎ込まれて、死亡確認。その後、変死体っつーことで、解剖に回されるんだろうけど、事件性は無いので、遺族を探すが、いないので、「しゃーない」から火葬で、無縁仏に…。 完璧だ! それぐらいの税金は払っている事にして、やってもらおう:-)
 畳の上で、ってぇーのだけ、こだわらなければ、問題ない。今の世の中、病院で亡くなる人の方が、多い様な気がするので、いいじゃん。『無縁』だが『仏』にまでなれるんだし。別になんなくてもいいけど。
 しかし、「最後は野垂れ死にか?…。」と思った時、枕が少し湿った。

追記:移行

 少し寒い日、私はふとんに入った。夜だったか、疲れて昼だったかは覚えていない。ふとんは体温より低いが、震える寒さは感じない。
 折り畳んだ『大の字』で、仰向けに寝たのだが、すぐに手先、足先の体温が奪われていく気配が感じられた。何か抜け落ちて行く様に、からだの力が抜けていく。ふとんの重さは感じられない。
 思考はまだある様だ。しかし、筋道を立てて何かを考える雰囲気は無い。そしてつぶった目には、カラーではあるが、何かが浮んでいる。そしてそれは、黒を背景に、幾何学模様になっていく。一昔前のスクリーンセーバーの様に。渾沌という言葉が当てはまる。聞こえないが、自分の思考は聞こえる。しかし、それは聞こえているのか? 何かを感じている自分だけは認識できている。見えている? 聞こえている? 嗅いでいる? 触れている? どんな感覚で感じているかはわからないが、自分がいる事だけは、わかっている様だ。そして、この記憶が(私にとっては)奇跡的に残ったのである。
 死への移行と感じられた。体温が奪われ、脳が渾沌としていく。脳はご存知かと思われるが、記憶領域でのイオンの交換で成り立っているらしいので、その秩序が崩壊していく様な感覚は、脳機能の崩壊を感じ取るにふさわしい。恐怖は無い。安らか、というよりは、人から物質へ、そしてその物質もバラバラになる、自然界に混ぜ合わされる思いか? 人としての感情は入り込めない。身を委ねる他には無い。無くなり、止まって行くのだった。

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(C)2005 Richard Feynkid