R.Feynkidの
ぶやき

あんなんに、なりたくないと思った瞬間

 時として、常日頃から問いかけている訳でもないのに、答えがポン出てきてしまう事がある。自分でも、なぜかわからないが、『ふと思う』というものだろうか? どうやら、ずーっと、どうでもいい事を、無意識に考えて、グルグルしているようだ。
 先日、春というより、初夏と言ってもいい位の、晴れた日の事だ。仕事で買い物に行く途中、運転席から、対向車線側の歩道に目をやると、どう見ても、中年の小太り、というより大太りで、ボサボサ頭には白髪が混じり、不精に長い髪は、ハードロックをやるには短すぎ、肩まですら無い。Tシャツには何か英文字が大きく書かれていたが、忘れてしまった。そんな事より、何よりも、その生地の色が、薄汚れているのか、白地に模様なのか判らない、なんとも言えなさに、嫌気がさしてしまった。下は、細い横縞の白黒バミューダパンツだ。しかもフニャフニャな生地で、なんともだらしない。素足にサンダル。そして、ママチャリを覇気無くチンタラと漕いでいる。
 その瞬間だ。「働いてて良かった。」、普段、まるっきり働きたくない私であるが、そう思った。というよりは、それが答えだと直感した。たぶん、自分と重ね合わせたのだろう。1年近く前までは、私もれっきとしたニートだった。今では、どう間違ったのかネクタイまでしている。一歩間違えば、私もあんな感じになっていただろう。いや、見た目で判断してはいけないかもしれん、もしかしたら、彼は大金持ちで、もう左団扇なのかもしれない。が、しかぁーし、どんなに大金持ちでも、あれは嫌だ。あんなんになりたくない。平々凡々でもいいから、今の自分の方がましである様に感じる。ネクタイしてりゃぁーいいってもんではないが、堅気の職にはついているつもりだ。納税の義務も果しているので、日本国民としても問題無い(何じゃそりゃ)。
 そう言えば、昔、ダイエット方法の一つとして、太っている自分の写真を、見える所に貼っておく、っつーのがあった。そんなのを思い出した。自分がなりなくない姿を知っておく、常に意識しているというのは、消極的かもしれないが、自分の道を踏み外さない為にも、有用かもしれない。
 そうそう、ダイエットのついでではあるが、「俺は(私は)マッチョになるぜぇ」と思って過ごしているだけで、筋肉がちっとは付く、という研究結果が出たんだそうな。Oバックパンツをお持ちの方は、是非試して頂きたい(何じゃそりゃ)。

※付け足し

 永沢光雄氏が47才という若さ(?)で亡くなった。失礼だが、新聞に載った写真は、私とひと回りも違わない方とは思えないほど、老いて見えた。ガンを患い、声を失い、アルコールに依存していった。やつれ、老いても仕方がないのか。
 私は彼の生き方は嫌いだった。いくら患い、そのストレスからアルコールを求める様になったからと言って、その怠惰に満ちた堕落さ、意志の弱さは、無いのではないかと思った。欝を患っているにしても、サラリーマンよりかは、緩やかな生活を送っていた様に思う。だから、良くはならなくても、悪くなってもらっては“ズルい”という感情が込み上げてくる。毎週のようにコラムでは、どれだけ自分が病んでいるのか、周りの人(特に奥さん)に迷惑をかけているのかを綴っていた。自覚があるのが、更に気に触った。
 私は何故か、そんないつも後味の悪いコラムを欠かさず読んだ。包み隠さず、ありのままに、淡々と書かれた出来事や思想に『人間を見て』惹かれていったのかもしれない。結果論ではあるが、それは命掛けの反面教師の物語りを読みたかったのかもしれない。本人は、そんな反面教師になんかなるつもりは、なかったのかもしれないが、“それ”しか残しようがなかった様にも思えてくる。
 “それ”とは、私が感じるに『ドブ』の様なコラムである。美しさも透明感も一切無い、直視するしかない文。何かを批判するにも力のない文。しかし、ドブにも大切な役割がある。皆の下水を流してくれる。いや、下水が流れ込んだからこそ、ドブになってしまったのだ。はじめからドブなのではない。我々は、その汚れてしまってからのドブを見て、どうにかする他ない事を痛感させられる。彼のコラムをリアルタイムで読めなかった方は残念でした。
 彼は最後の方で、日本の文学は、病自慢か女の事しかないと言い、病の方は書くことが山程あるが、女の方は無いとぼやいていたが、そんなことはない。毎回、奥さんの貴方への愛情を、貴方自身が綴っていたんだよ。
 水はもう海に辿り着いたかな? 合掌

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(C)2005 Richard Feynkid