R.Feynkidの
ぶやき

フェラーリを購入する前に

 フェラーリと言えば、言わずと知れたスーパーカー(死語?)メーカーであるが、大多数の意見として、「ローンで買うような貧乏人は買うな」と言われている。私もそう思うのだが、世の中には「どうしても欲しい」という人もいるだろう。雑誌ゲンロクやティーポなんかを読んでいる層だ。真の金持ちならゲンロクなんか読まないだろう。なぜなら、雑誌なんか眺めていないで、自分の車を眺め、いじり、乗り回せばいいのだから。
 さて、真の金持ちは隅に置いといて、実際の所は、ローンでも何でも、欲しくて購入できる人は、買えばいいのだが、それでは、欲しいのに買えない人の立場が無い。元々無いのだが、このままでは、貧乏人を笑い者にするCM「どぉーするぅアイ○ルぅー」になってしまうので、代替案を出しておこう。
 では、一体どうすればいいのか。あるではないか、音だけでもソックリなのが…。

そう、ベスパだ。

フェラーリが加速をする時のあの「カァーン」って音が、ベスパの「カァーン」とソックリではないか。こればっかりは、ベスパでないとダメである。アルファフィアットランチャマセラティーも、その気にさせるいい音がするのだが、あの音とは違う。もちろん豪華さという意味では全然違うのだが、地中海の乾いたサウンドは同類と感じる事ができるだろう。さらに、安いぞ(笑)。フェラーリの100分の1位の値段でどうにかなるはずだ。それでも、イタ車だ。国産バイクの、それ風スクーターより、断然おしゃれである。そして、フェラーリのステッカーを1枚貼っておけば、「こいつ、もしかしたらフェラーリオーナーかもしれん。」と、なんちゃってオーナーになれる可能性もある。ただし、フェラーリは知っているが、ベスパがどんなもんだか知らない様な人には、フェラーリもベスパも薦めない。自己責任がとれる人のみ購入していただきたい。


追記:レクサスがいいじゃん

 ここんところ、自動車の売れ筋が軽自動車か、いわゆる高級車に2極化しているんだそうな。この高級車(というか高額車)が売れるというのは、なにも景気が良過ぎというわけではなく、家(もしくはマンション)は買えないけど、そこそこの金はあるという、プチ金余り現象によるものらしい。「せめて車ぐらい…。」という心理が働くのだそうだ。
 言われてみれば、月極駐車場にメルセデスやらBMWやらが置いてある。先日なんかは、明らかにアパートの住民用隣接駐車場(敷地内!)なのだが、ロールスが置いてあった。もちろん枠線からはハミ出て、両側も圧迫している。なんと迷惑な…。
 でも、メルセデスなりロールスなりと、高級だから高額という車を買ってしまった人はいい。たとえ間違えて買ったにしても、本物の高級や異文化というものが味わえる。人生、間違った方向へ行くかもしれないが、糧にはなるだろう。
 しかし、だ! 世の中には、400万円のクラウンは買えるが、(中古の)100万円のメルセデスは買えないという不思議な小市民がいる。そんな向きには、そう!レクサスがいいじゃん(笑)。
 たった600万円で高級風の車が買える。どうせ中身はエンジンの大きなカローラだ。カローラとサニー位しか知らない小市民には、お誂え向きではないか。本当の高級なんて判らないんだろうから、高級風が味わえるだけで十分だ。大体、たった600万円で高級車が買えると思っちゃぁいけない。190なんて子ベンツとか、六本木のカローラなんて言われてたけど、あんなんでも、スゲー高かったんだよ。何でか、高けぇー車だからだよ。
 以前見かけた光景で、オートバックスのガレージで、リフトアップされていたメルセデスと、トヨタのセダン(なんだか忘れた)があった。メルセデスのホイールは、腕をダラーんと垂らしているかのごとく、ぶら下がっていた。一方トヨタは、「これ、板バネ?」ってほど、ホイールハウスにはまっていた。これを見ただけで、「さすがメルセデスだなぁ」と思った。ストロークの長い足でも、しっかりと走れるようにするには、物凄い金がかかるのだ。真の高級車というのは、あらゆるところに金をかけているから高い。メルセデスは何を買ってもメルセデスなんだ。ジャガーは何を買ってもジャガーなんだ。同じように、トヨタ(レクサスを含む)は何を買っても、基本はカローラなんだよ(笑)。そこを忘れちゃぁいけないよん。
 大体、カローラユーザーに、一面に張られた本革や、そのステッチ、ニス塗りのメイプルウッドなんて、維持管理できないでしょ? やっぱり、合革とウッド風パネルがベストマッチだよ。で、変なエアロつけて、VIPカーとやらにしてみたら? でもあの『VIP』って、『貧乏一般ピープル』の略なんでしょ?(上から目線笑)
 ところで、レクサス認定中古車ってぇのがあるんだって? ステータスブランドのつもりなのに中古かよぉ。「中古車にはLのマークがつきませんが、よろしいですよね。」ぐらい言ってみたらどうなんだ?
 んでもって、田舎にぽつーんとディーラー建てておくなよ、(ピー)袋持って、犬の散歩に来たおっちゃんが、前を通りがかったら、せっかくオシャレにしたつもりなのに、台無しじゃないか(笑)。Appleみたいに、「銀座に来てね。」って、高飛車に出てみるのもいいかもしれんよ。そんでもって、売る車もストレッチだけにして、「えぇ? ご自分で運転されるのですかぁ? 貧乏ですねぇ。短いボディーがご所望なら、トヨタに行って下さい。」なんてほざかせると最高じゃん。もちろん、来客用の駐車スペースは、でっかい枠線にして、「ちっちゃい車で来るんじゃねぇ。」という意思表示をするのも、演出ってもんじゃないかな?  貧乏人も入れるんだけど、入りづらくするのが、高級ブランドってもんよ。「カタログですかぁ? 本革カバー付きで3万円です。」てな具合にね…。

※ちょっと訂正。実は600万円ちょっとで、買える高級車がある。シトロエンC6だ。どう見ても、CXの後継車だから、高級だぞぉ。またしても進化したハイドロで、一度乗っちゃうと、他の車が『チャリンコ』に乗ってるみたいに思えるはずだ。600万円でカローラを買う? それとも仏大統領車を買う?


追記:メッキパーツのデザイン考

 私はメッキパーツが嫌いだ。何よりも貧乏臭いイメージがある。しかし、世の中には同じメッキパーツでも、「ほほぉ、センスいいな。」という物もある事に、先日前を走る車を見て気付いた。だが、メッキパーツ嫌いの私は、しばらくそれが何故であるかを、考えなければならなかった。
 私の分析はこうだ。まず第1に、ボディに対する『印象としての』メッキ部分の比率が低い事。エンブレムやメッキパーツそのものが、あまり主張しないのが望ましい。『印象としての』と断っておくのは、絶対的な面積ではないからだ。単純に言えば『べたぁー』と、いかにも“メッキパーツですよ”と、貼り付いている様に見えないデザインである事だ。
 第2に、前記と重複するかもしれないが、メッキパーツはあくまでもボディラインの明暗を補強する様に使用されている事。または、単純になりがちな部分のアクセントとして、やはりデザインの補強的に使われるのか良い様だ。
 ボディには塗装が施されていて、ツヤがある。そこに光が差し込むと、反射して輝く。また、ボディには様々なカーブやラインがあり、見る角度によって、刻一刻と輝きが移り行く。そんなボディの中で、メッキパーツは、その輝きを強調する為だけに存在し、造形に溶け込んでいなければならない。塗装面が輝いているのか、メッキ部分が輝いているのか、区別がつかないくらいが究極だろう。
 総論としては、結局のところデザインには『必然』が伴わなければダメなのだ。そして収まっている事。オプションパーツにありがちな、オーバーフェンダーの様なモール(?)、ミラーカバーなんて、貧乏下品としか言いようがない。メッキの本場(?)アメリカの、カスタムカー野郎どもの車を見てみなよ、意外と量は少なめだし、変なところには付けてない。華やかだが、キンキラではないのだ。ヨーロッパのチューニング野郎どもに到っては、どんどんメッキパーツがもがれていく(笑)。
 てな訳で、ごってりとメッキが施されたバカラのグラスなんて、使いたくないでしょ? ぶっといメッキモールが施されたヴィトンのバッグなんて、欲しくないでしょ? グランドピアノの天板がメッキだったら、笑っちゃうでしょ? じゃぁ、何で車だけ、メッキだらけなんよぉ。うまく、さりげなく使おう。
※日本でカスタムカーと呼ばれる分野は、ヨーロッパではチューニングカーと呼ばれるらしい。


追記:悪魔と仲良し西洋人
 ひと絡げで何だが、ヨーロッパというより、中東やアジアじゃない、んーっと、そう! 西洋でデザインされた車の顔つき(体つきも)って、もんの凄く悪ぅーい感じがしない? 「特に」と言えばイタ車だ。フィアット以外は、盾に猛牛に跳ね馬に、極め付けは蠍(サソリ)と来れば、イタリア人総マフィア妄想に取り憑かれてもおかしくはない。むしろ、車だけが可愛いデザインだったら、余計に?である。
 「文化の違いじゃん。」と言ってしまえば、そうなんだけど、ちょいと迫ってみたい。南半球を忘れてしまえば、あと車を作っているのは、アジアの一部だけだ。ほとんどのアジアの国は、ヨーロッパ勢のOEMみたいな車しか作っていない。そんな中で、比較対象になるのは、やはり日本車だろう。
 ところで、その日本車。悪い顔つきって無いよねぇ。がんばって「ちょいワル○○○(もう死語?)風にしてみました。」と思えるものもあるが、「どうすれば、こんなに悪いんよぉ。」というレベルには、到底辿り着けていない。

 この違いは何か? 一言で言えば、『悪魔文化が有るか、無いか。』ではないだろうか? 思い出してみれば、少なくとも日本には、言い切ってしまうが、悪魔文化が無い。土着的宗教観があり、多神教であった日本人には、悪魔というものが、出て来なかったのである。“触らぬ神に祟り無し”とは良く言ったもので、日本の神さんは、平気で“祟る”のだ(笑)。神さんと対極に位置する悪魔なんて居なくても、神さん自身が手のひらを返してしまい、悪魔的所行をブチかましちゃう。「居るじゃん、鬼が。」という意見もあるかもしれないが、こちらも、実は『神と鬼とは、ほぼイコール』なのではないかと思われ、悪魔では無い。なぜなら、天国が神の担当(?)とすれば、鬼は地獄の番人の役割(イメージ?)があり、故に、彼等は見事な協調と分業が成されているからである。更には、雷神・風神に代表される様な、全国の神社に祭られている神さんのなんちゃら像なんて、我々がイメージする“鬼ヶ島の鬼”の雰囲気そのものではないだろうか? そんなんだから、神さんが平気で祟れば、人間の方も、平気で鬼すら神格化して祭ってしまうという、スーパーちゃんぽん多神教文化が染み付いた。要はボーダーレスで、日本には、良いも悪いもひっくるめて、神さんしかいないのである。

 西洋ではどうだろうか? 大雑把にはユダヤ教を発端として、分家のイスラム教とキリスト教がある。ユダヤ教は土着的で日本と似ているが、一神教なので、若干違う。しかし、どうやら悪魔という設定は無い雰囲気である。元々、神という概念はあるが、名前も無く、イメージも無く、すべてを内包しているので、神に対抗する存在は、存在すら出来ないと考える様だ。(間違ってるかもしれんよ!) イスラム教は、主に中東のイメージがあるので、ここでは割愛する。で、現在の西洋デザインの中核となると(勝手に)思うのは、キリスト教の文化だろう。
 ご存知の様に、キリスト教文化では、神に対抗する存在である悪魔の設定がある。そして、偶像崇拝を禁じているわりには、十字架に何故か白人に見える人間がぶら下がっているものを多く見かける。そんなのを発端(?)に、聖母だとか、聖書の物語の一場面とかを、絵画やら、壁画やら、彫刻やら、何やらに写し出している。如何に神が偉大かをイメージ化し、民衆に訴えかける為に、永年に渡り、それらに力を入れてきた。その過程で、神は増々美化され、人々を感嘆させる芸術にまで発展した。
 それと同時に神同様、悪魔のイメージも、民衆に焼きつけ、恐れを抱かせるために、研究、創造されていった。こちらも、永年に渡り、芸術家がコツコツと日々精進したお陰で、悪を彷佛させるデザインというものが、確立され、偉大なる神に対峙するに相応しい悪魔に発展したのだ。それは美化でもある。双方に神々しさが必要だったから、必然として、そうなったのだろう。こうして、西洋には、『美しい悪魔』というものが生まれ、その感覚は、民衆に脈々と受け継がれていく事になる。

 「ちょっと悪いくらいが魅力的」という女性は結構いるらしい。ならば、デートの定番であるドライブの待ち合わせに、颯爽と現われる車だって、ちょっと悪な雰囲気がある方が、カッコイイに決まっている。
 …と思っている(体感している?)デザイナーが、「悪ぅーい顔つきの車作っちゃおう」と、ラインを描いてしまうのは必然だ。なんせ、どうすれば、悪な雰囲気を醸し出せるかは、もう伝統と化しているので、御茶の子さいさい。美しい悪魔のデザイン言語を、車に応用するだけだ。
 特に、スポーツカーや大出力のプレミアムカーの、暴力的なまでの性能は、ドライバーと悪魔が一体化したかの様なイメージを抱かせるかもしれない。そんな車のデザインは、やはり、美しい悪魔をモチーフにするのが相応しい。こうして、カッコイイ、又はプレミアムな車程、悪ぅーい雰囲気なデザインが用いられる様になっていったのだろう。そして、それに大衆は憧れ、欲求し、いつの間にか、美しい悪魔をカッコイイ車として受け入れ、慣れ親しみ、標準としたのである。

 『悪魔文化が有るか、無いか。』だけで、随分と車のデザインが違ってくる様だ。突然変異的なデザイン感覚が無ければ、異文化に食い込むのは難しい。もっとも今では、アウディのデザイナー和田智氏の様に、見事に悪魔デザイン言語を習得(?)されている方も出現してきた。グローバル化が進めば進む程、世界中に悪魔の化身は広まり、そして、悪魔文化が有っても、無くても、車に関しては、悪魔と仲良しにならざるを得ない状況になっていくのだろう。日本人としては残念だが、美しい悪魔の魅力は、如何に美化されようとも、神さんでは代用できそうもない。
 ところで、ちょっと前の日本のセダンって、あの金色のエンブレムを含めて、仏壇だよねぇ(笑)。お寺と山車を足した様な霊柩車の“おとなしいバージョン”とも言えそうだ。今では…、いや、やっぱり、どこか悪魔の香りがしないなぁ。

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(C)2002 Richard Feynkid